稽古場を観劇する/第三回目10月23日(日)
『稽古場を観劇する』③
■稽古場の観劇を楽しむ、たった1つのコツ
リハーサル⇄対話からなる、〈 稽古場ーハチス企画 〉。
「対話」のシークエンスでは、演出家の蜂巣さんが断片的なイメージ、戯曲に対する解釈、何らかの方針を投げかけて、俳優がそれに対して応答し、ときに脱線、ときに話が膨らみます。
覚えている限りですが、次のような「投げかけ」がありました。
・「ゼロスタート(真空地帯)での出会い」のようなコミュニケーションをとろう。
・それを前提にして、ディスコミュニケーションをとろう。
・桜は他の家族とは切り離された老婆だけの桜であってほしい。それはどこに行っても桜の木が追いかけてくる。
・普通の戯曲だと何かを考えている「・・・」みたいな間を表す記号はセリフの前についているが、別役の戯曲は逆で、セリフの終わりについている。これはなんだろう?
・何回目かのリハーサルのあとで(蜂巣さん、吹き出し)別役にはこういう要素もある。喜劇。「面白おかしくなっていく」のはやりたい。
こうした「対話」のシークエンスを繰り返しながら〈稽古場〉は進行していきますが、見てるこっちとしては、このシーンは良くなっていっているのか、悪くなっていっているのか、全然わからなくて「ふーむ」となるように思えますが・・・
〈稽古〉の終わりに、蜂巣さんからこんな話を聞きました。
まろん「今日の稽古は、作品全体の工程を10とすると、何段階目なんですか?」
蜂巣「2段目・・・かな。戯曲があるのは大前提として、俳優はそれぞれ個性を持っているから、それを消さずに、別役に対するみんなの意識の方向をすり合わせる作業をしています。別役と同じラインに立つために必要な方向性のすり合わせ、です。」
なるほど、と思いました。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
別役は「敵」ではないですが・・・戯曲から自由になるために、『木に花咲く』に描かれていることを、それぞれの感性から読み解いて、〈稽古場〉に重ねていくような作業をしている、ということだと思います。完成のイメージへ向かって進んでいく、というわけではない。
キャンパスを前にして、(ある意味当てずっぽうに)数多の色を塗り重ねていくと、どんな色合いが浮かび上がってくるか・・・みたいな。
その色彩の濃度を高めていくのが、(パレットに色を増やす)対話のシークエンスだったわけです。
観客は少しずつ積み重ねられていく言葉を背にして、何かのイメージや意味合いが突然立ち現われたり、現れてこなかったりする偶然の戯れをスリリングに眺めることが出来るのです!
これが、楽しい。
だから〈劇場〉作品と違って〈稽古場〉作品は、物語のクライマックス(完成)へと向かっていくというよりは、それぞれの段階で「サブタイトル」を持っている連作短編集のようなものです。
例えば、今日僕が見たものは未完成な劇場作品というわけじゃなく、〈稽古場ー別役を読む俳優の意識を上演する〉という「木に花咲く」の一つのバージョンだった。
ここがポイントです。稽古場に観劇に行く際に、是非押さえておきたい。
劇場で作品を見たときは、多分すでに充分に蓄積された「結果」が観客には手渡されることでしょう。
ところが〈稽古場〉は、その蓄積されていく「過程」の様々なバージョンを同人誌のように楽しむことが出来るのです(稽古場の観客にその気があれば)。
これで第一回の〈稽古場〉観劇レポートは終わりです。
〈稽古場〉の上演はまだ、はじまったばかり。
(これも〈稽古場〉上演の特徴ですが)一日では上演し切れず、〈劇場〉上演の1月16日まで、特別な時間が蓄積していくのだろう、と思います。
さあ、幕はあがりました。これからどうなっていくでしょうか・・・。
また、稽古が別バージョンの上演を見せたときにお届けしようと思います。