『愛するとき死ぬとき』東ドイツについて
前回の投稿に引き続き、上演中出てくる東ドイツの背景についてメモしておきます。
〇東ドイツについて
ドイツが第二次大戦の降伏前(1945年2月)、アメリカ、イギリス、ソ連三首脳のヤルタ会議で戦後のドイツを、フランスを加えた4国で分割管理する基本方針が決定された。のち、8月にポツダム協定が成立し、完全な非ナチ化と民主化がなされるまでドイツの4ヵ国分断占領が確定する。
しかし西側の米英仏占領地域では自由主義経済を基本とする経済復興をめざし、ソ連占領地域では社会主義化をめざす措置がとられたため、東西の違いが問題化する。
1948年6月の西側の通貨革命強行を機にソ連がベルリン封鎖、4国管理理事会が機能しなくなり、ドイツの東西分離が事実上確定する。
東西の分離は次第に固定化されていった。
西ドイツは資本主義経済体制のもとで奇跡と言われた経済復興を遂げ、東ドイツは集団農場の建設など社会主義建設を進め1970年代まではソ連経済圏と共産主義国のなかで最も安定した国の一つであった。
当初は簡単には統一は実現されないだろうと考えられていたが、80年代の東ドイツの経済破綻が予想以上に早く進み、またソ連でゴルバチョフが登場して体制が変化したことを背景に、89年夏から大規模な東ドイツの国民の西ドイツへの移住が始まり、当局もそれを抑えることが出来ず、ベルリンの壁崩壊と統一の流れになった。
東西ドイツ統一後は東西の差が非常に大きく、深刻な不況に襲われ、その影響は長く続いた。またそれによる不満が溜まりネオナチ、右傾化な波がいまなお進んでいる。