どらま館ショーケース『愛するとき死ぬとき』記録
『愛するとき死ぬとき』撮影:takaramahaya(無断転載、利用はご遠慮ください)
どらま館ショーケース参加作品『愛するとき死ぬとき』が終了しました。
12月のお忙しい中見に来ていただいた方々、どらま館運営の方々、スタッフさんに誠に感謝しております。
上演を通していろんな感想を拝見させていただき、ここで再度言葉にしたいと思うところを設定してみました。
◆一人の人物を四人が演じるというが、同じ人物には見えない
そうだと思います。
容姿も違うため、やはり一緒には見えないのではないでしょうか。
そもそも戯曲の「俺」とはどんな人物か考えてみると、非常にのっぺりとした部分があります。 友人には二つのタイプがいて、いわゆる悪友もいれば「俺」と全く違うトーマス・ヘルビヒという人物。 好きなタイプは胸の大小関係なく、素敵な子。 勉学は良くはない。天文学が好きである。 スポーツもそこそこ。 女性には、ややモテる。 親との関係は明記されない。 「俺」だから持ちうる特別なアイデンティティや経験はなく、漠然とした将来に不安を抱えている。 この凡庸と言える姿自体をコンプレックスとして持っているのが彼の姿だと思います。 これは非常に普遍的な悩みで、本当は他人と差異があるけれど、気付かないうちに他者と自分を比べて、自虐や自己軽視をしながら「俺」の形を失い、もみくちゃになっている。
私はこれを一人の主観、物語として見せ考えるよりも、「俺」たちが幾人もいる状況、社会的な悩み、鬱屈として考えたく思いました。
実際東ドイツの状況もまさにその流れにあり、壁崩壊に至る政策や人の思い、移民の流れは、隣り合った西側の成功した姿を目にした瞬間に、構築してきた理想がボロボロと崩れてしまった。検閲をし、監視社会にして堅い状況を作れども失敗に終わった。 本当に確かな幸せ、「俺」たらんこと、理想なんてあるのか。
凡庸も差異もすべて舞台に乗せて、細かくパフォーマティブに共通箇所を提示することなく、共存させてみたのが今回の作品の狙いでした。
見られた中で、ちょっとした分からないところなどがあればTwitterやこちらのコメントに載せていただけたらなるべく答えていこうと思います。