『ハッピーな日々』の稽古場から ーあるイントロダクションとしてー
・ドラマトゥルクとして
『ハッピーな日々』でドラマトゥルクを担当した前原拓也です。最近、ドラマトゥルクは演出家を中心とした各セクションに決断をさせる仕事だと考えるようになってきました。
稽古場で、演出家は役者とともに一つのシーンを立ち上げます。
ドラマトゥルクはそのシーンが立ち上がるのを見て、目の前に立ち上がったシーンと、戯曲自身が本来求めている(であろう)読まれ方を対比させ、それでも今の方法を選ぶのか、それともまた第三の道を探すのか、彼らに決断を促します。
とかく稽古場では演出家のイメージで閉鎖的になってしまいがちですが、ドラマトゥルクがいることによって、稽古場と世界を繋げる「すきま風」を通していくような、少し大仰ですがそんな気がしています。
・決断の連続
『ハッピーな日々』において、ベケットはヒステリックなまでにト書きを書いています。冒頭の一例を挙げるとこんな感じ。
「(間。頭をまっすぐに戻し、前を見つめる。間。胸の前で手を組み、目を閉じる。聞こえない祈りで唇が動く、一〇秒ほど。唇、とまる。手は組んだまま。小声で)」
ここまで動きが固められていて、演出家の仕事をする余地がどこにあるのか。
初めは演出の蜂巣さんともそう話していましたが、実際の稽古では決断しなければならないことの連続でした。
どこに当てているか分からない感嘆詞や、急に話を分断するようなウィニーの話し方、何を思っているのか分からない空っぽな言葉など(作中のいろいろな言葉について、解釈が開かれた形になっているのは、長島確さんの新訳の力が大きいです)ベケットの文体は、一見言葉と動きが精緻に固められているようですが、実際の人間の身体を通してみると、バグや誤作動がどんどん起きていきます。
稽古のプロセスの大半は、ウィニー役の岩井さんと蜂巣さんの共同作業で、あらゆるセリフの落としどころを決めていく作業に費やされました。
・教育的なベケット
「ベケット作品を演出することは、決断の連続である」という逆説と関連して、ベケットの作品は演出家や俳優にとって非常に「教育的」だと感じました。(これも、従来僕がベケットに抱いていた感覚と異なるものでした)
本作の分裂症的なセリフ群は、ある一つの役を作り上げれば発話し続けられる類のものではなくて、演出家・俳優に対して、常にどのように発話するべきなのか選択を迫るようなテキストでした。つまり、『ハッピーな日々』のおびただしい量のテキストは、ある一方向に収束していかずに、常に新鮮に、またある意味で無邪気に、演出家・役者に問いを立てていきます。
この決定の連続は、演出家・俳優にとって非常にハードですが、反面かなり鍛えられるなぁと、稽古を見ながら考えていました。
そして事実、稽古の中で、蜂巣さん、岩井さん、そして常に見守るウィリー役の亀山さんも、共に決断していくプロセスを経ることによって成長していく様が見て取れたと思います。
この膨大なセリフを徐々にインストールしていく過程での決断の連続が、丘の上に埋まっているという超非日常的な設定の登場人物に、我々現代人と地続きとも見て取れるような人格を与えている、と言えるでしょう。
・老いを考えるプロセス
『ハッピーな日々』を上演することになって、どこか取っ掛かりを決めようとなった時、戯曲に書かれているウィニーとウィリーの年齢(50歳くらいと60歳くらい)と、上演に関わる我々(30歳近辺)の年の差を無視しないようにしようということになりました。
『ハッピーな日々』について考えると、「老い」と「孤独」ということをどうしても考えずにはいられません。
蓄積された習慣の中で、ある一日をやり過ごす中年の女性。コミュニケーションが取れない初老の男性。
こう登場人物の特徴を挙げてみると、『ハッピーな日々』は壮大なフィクションのようで、どこか自分たちと地続きのテーマを扱っているように思えました。
稽古のプロセスは、まだ若者と言って差し支えないだろう我々が、「老い」と「孤独」を考えるプロセスでもあった、とも言えると思います。
今回ウィニーは、特に老けたメイクや衣装を着ているわけではありません。そのため、舞台上の岩井ウィニーは、ある中年女の過去が幻視されているのではないか、という思いが去来することもありました。
若い岩井さんが演じることによって、観客の視線は、役者/役、過去/未来など様々な層(レイヤー)を想像しながら見ることになるでしょう。